俗と仙
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田中暁光庵 投稿日:2003年12月6日<土>15時39分
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外伝・千恵子妙
(かつて、この日本の国に詩人であり、且つ彫刻芸術家でもあった、高村光太郎と云う人物が居た。彼は長沼千恵子と云う女性と恋愛し、そして、結婚した。 光太郎は幾編もの詩を綴り、妻智恵子に見せた。そして幾つもの木彫り細工の芸術品を彼女の為に彫り上げた。しかし、未完で終わってしまうのも多かったらしい。 日常の生活は貧困を極めていたようである。そんな中、千恵子の精神内部が分裂して行くのである。それは光太郎の美
と云う物を求める芸術家・詩人としての精神の孤高性に有るのではないかと思う。
もうひとつ。ソクラテスの妻クサンチエッペは世に云う悪妻の代名詞にすらなっている。
果たして、千恵子やクサンチェペは通説どうり悪妻なのだろうか?・・・僕はここで、思考が行きづまった・・・とうぜん、詩人と哲学者を比較することは出来ないが、表面的に見れば彼らの妻達は精神的に荒廃している、はたしてそうなんだろうか?
光太郎は千恵子をモチーフにした詩をたくさん書いている。それらの詩が「千恵子妙」である。文部省認可の教科書にも<レモン哀唄>は載っているので、記憶されている人もいるであろう。僕は思う、彼女達が結婚した相手が俗人ならば、平安な人生をまっとう出来たのじゃないだろうかと。結論を言えば、高太郎もソクラテスも仙の世界に入っていたと云ったほうがいいだろうか。そして、妻達は自ら精神的に追い詰められ精神に異常をきたした。)
時限と空間を越え
変わらぬものがある
目に見えぬ有機体
国により 人により さまざまに固有名詞が付けられる
霊
魂
スピッリット
遥か永遠の太古から
霊長類に与えられてきた
形なき有機体
体内に宿り 心を 司る
俗人は云う
そんなもの有りはしない
幻覚だ・・・と
目に見える物質
固形体・・・
のみ信じる人々も居る
この世界の中に
聖霊の住む国が有る
シャーマニズムを信じる人々
現世はカルマの浄化だ・・・と
信じる人々が居る
この世界歴史に名を刻んだ
多くの人達は
使命をおびて歴史に生まれた
そして仙の領域で活動した
山と谷・・・
人が付くと
仙と俗 に変わる
遥か孤高の精神に
俗な心は掻き乱れ
小さきなるゆえに 俗な精神は
乱れる・・・
あなたたちが わるいのではない
俗人たちよ・・・
この次元は あなたたちの
住家なのだから
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Res:いくママ 題名:悪妻というけれど・・ 投稿日 : 2003年12月30日<火>06時02分
悪妻について、なるほど考えてみれば、もともと悪妻といわれる人ではなかったかもしれない。芸術家についていこうとすること自体、普通の生活は望めないものだろうし、安定すると芸術活動は止まってしまう。激しい芸術作品は不安定を基盤にしてつくられるものだったのかもしれない。それに付き合う妻は、普通に何気ない話でテレビみて何気なくだらだらとふたりの他愛無い幸せを流れるように時間を過ごしたいな、あれ?今日の髪型違うんじゃない?など言ってもらいたいなどと思っても叶わないことだろう。
でも逆に幸せすぎて、芸術やめた!とだんなさんが言っても奥さんは悩むだろうし・・どっちにしても芸術家の妻は悪妻になるし、悪妻といわれる人になるほうが、夫の為となるものだ。悪妻といわれて嬉しい妻は誰一人いないだろうけれど・・
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Res:田中暁光庵 題名:返事 投稿日 : 2003年12月30日<火>16時14分
いくママ様、どうもレスを付けていただいきありがとうございます。
貴女の書き込みを至る所で拝見し、中々奮闘しておられる様子が伺えます。
で、今回の書き込みの件に関しましては少々返論するところもあります。
まず第一に、芸術を語るならば、それに見合った文章を書いていただきたい。
貴女の文章はこの中にも出てくる普通の生活を送る妻のものではないでしょうか、と
私は疑ってしまいます。
文章とは芸術であり、それを作り出す人の手によっては幾らでも美しくなるものです。
あたなには、創作者としての力がまだまだ足りない。
そして第二に、後半の悪妻についてでありますが、話の流れがつながっておりません。
人に意見を述べるときには、それ相応の「論理」が必要になってくるのではないでしょうか。
この文章に流れているのは、肥大化した無感性であり、鋭さがなく、人を説得させるには程遠い、ただの怠慢ではないでしょうか。
もしこの返事を読んだなら、改めて悪妻についてのご意見を拝聴したいと思います。
芸術的なレス、お待ちしております。
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Res:響子 題名:バランス具合 投稿日 : 2003年12月30日<火>22時46分
モノを書くものと書かぬもの、描くものと、描かぬもの、奏でるものと奏でないもの
創るものと創らないもの・・・
乱暴な分け方ですが、そんな組み合わせで生きたとしたら(生活をしたら)
どんな歪がでるのだろう。
逆に、創るもの同士ではどうなのだろう。
生物的に生きていく以上、生活、と呼ばれるものがあり、
個人としての認識をもらっている以上、社会での生活もある。
が、「あ〜、そんなものなけりゃ魂はもっと解放されるのに」と思うのも事実。
現実を生きることと、感性で呼吸することのバランスが、いつも微妙である。
いっそ狂えたら(的確な表現ではないが)、この感性の世界にすべて投げ込めるのに
とも思う。
これは言い訳だろうか。
自分の中にある現実と感性、上手にバランスをとればとるほど
したたかな年寄りじみた自分をみるだけで、
だからこそ、書くその一瞬に、感性に飛び込んでみる。
ときたま、その感性の中にいるままに会話がなりたつこともある。
そういう人に出会うと、行く時間でも話していたくなるが
それができないのも、現実。
私は創るものでありたい。
孤独は、そのために抱える。
もしかしたら、その孤独をまわりに撒き散らしているのかもしれない。
感性に沈む私をみて、心痛める人もいるのかもしれない。
それでも、私は創るものでありたい。
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Res:いくママ 題名:芸術的なレス・・考え中・・ 投稿日 : 2003年12月31日<水>03時04分
田中さま ご指摘ありがとうございます。詩もですが、文章は話をすること同様、私の幼い頃から最も苦手とすることです。昨日書いた自分の文を今、直視できません。
なんといいますか、私は単なる一主婦であります。エプロンつけた生活の合間に生きがいを求めて書いております。そして、自分の思うことを書いているだけであって、誰かを説得する為に書いているわけではありません。論理というものもほとんど頭にありません。文章が芸術だ、とは考えたこともありませんでした。
でも 田中さまのおっしゃるとおり、芸術だとすれば、芸術とはなんだろうか?ということから考えてみなければなりません。美しい文章とはなにか・・課題になりました。
芸術的な文章なんて、レスなんて私に書けるのだろうか、はたして・・・疑問を感じながらも、考えてまた書きたいと思います。
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Res:田中暁光庵 題名:お返事! 投稿日 : 2003年12月31日<水>12時36分
▲響子様
(初めてではありませんね!)
レスポンズありがとう御座います。
然しながら、幾らハンドルを変えましても、文体書体は仲々変えられぬもの、
(あの)方であろうと憶測しております。
>いっそ狂えたら・・・
そうですね、ものを創り出してゆく人間の精神には時として狂ってしまいたい、
そんな思いも浮び上がりますね。
>行く時間でも話したくなるが・・・
仔細な事で申し訳ありませんが(行く時間)―これは、何か意味の有る時間なのでしょうか?
其れとも「幾時間」の変換ミスなのでしょうか?
>私、創るものでありたい。
「創る者でありたい」と表現されてはいかがでしょう?
▲いくママ様
>私は単なる一主婦であります。エプロンつけた生活の合間に生きがいを求めて書いております。そして、自分の思うことを書いているだけであって、・・・
(ans)他人の事も少し考えてみましょう。
自分の思うことを書き散らしているだけとは、これははっきり言って、
街中にゴミを撒き散らしているようなものです。
他人に迷惑だとは思いませんか?、そう云う人って。
それと同じ事だと思うのです。
ネットも街中も同じ事でルールや規律があります。
単なる一主婦と言う処に逃げ場所を唱えてはいけません。
解り易く、リズム感があり、美しい文章は幾らでも書くことが出来るのです。
これも、ひとつの課題でしょう。
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Res:響子 題名:あ〜、ソコツもの 投稿日 : 2004年1月2日<金>20時09分
行く時間、は、いく時間の変換ミスでございます。
創るものは、「創るもの」であり、「者」という感覚とはちがう思いです。
・・・って、説明は苦手。
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Res:いくママ 題名:響子さま 投稿日 : 2004年1月3日<土>14時58分
はじめまして。いくママ(ikuko)と申します。私は最近ここに出入りし、早朝毎日の日課のように書き込みしているものです。
【だからこそ、書くその一瞬に、感性に飛び込んでみる。
ときたま、その感性の中にいるままに会話がなりたつこともある。
そういう人に出会うと、行く時間でも話していたくなるが
それができないのも、現実。
私は創るものでありたい。
孤独は、そのために抱える。
もしかしたら、その孤独をまわりに撒き散らしているのかもしれない。
感性に沈む私をみて、心痛める人もいるのかもしれない。
それでも、私は創るものでありたい。 】
今回響子さまの文章を始めて(2回目かも・・)読まさせていただきました。
上のコピーしたところの文章が特に印象深いです。
特に、響子さまは芸術家なのだ、という感を持ちました。特に・・書くその一瞬に・・というところが、文章を書くという姿勢、打ち込みようが感じられます。
書くその一瞬に、感性に飛び込んでみたくなる。・・何度も書きますが、この部分がとてもいいです。その一瞬に賭ける姿勢。一日24時間同じ姿勢でなくとも、<書くその一瞬>に何か賭けるものがあったら、ステキです。ああ、なんだか、教えられた気持ちです。ありがとうございました。
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Res:響子 題名:変人なのかも 投稿日 : 2004年1月3日<土>20時44分
心は、
たしかに24時間、感じ、うけいれ、とりこみ、咀嚼しているのに
生きていくということは、24時間それのみをみることが許されない。
それを手放して、心のみで生きてしまえば、
他のすべてを、他の人にゆだねるしかないだろう。
それは、悲しいかな、私の美学にはないのです。
心のままに生きる、その瞬間に飛び込むために
ちゃんと自分のめんどうは自分でみる必要があり、私のこだわりは
そういう矛盾するもののなかにあります。
全力で人として生き、
その上をゆくエネルギーを圧縮して、詩を書く。
書くことを必要としない人には
とても奇異にうつることかもしれませんね。
芸術家かどうかは、そう表現されることすら
私にはピンときません。
私はわたしでありたいためだけに、
書いているのだと思います。
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Res:冠蛙 題名:正伝・智恵子抄 投稿日 : 2004年1月4日<日>03時56分
ちょっと失礼します。僕が聞き及んだ正伝によりますと、高村光太郎氏が「俗」であり智恵子さんの方が「仙」であるとのことでしたが・・・。光太郎は俗人であるからこそ「仙」に憧れた。けれども6歳から握った小刀にも”神”は降りてこず、ただ苦悶の日々が続いた。一方内実「仙」の領域に住みながらも「俗」に身を置かなければならなかった智恵子の苦悶は俗人が知るところではなかった。神は光太郎にではなく智恵子に降臨した。光太郎はただ智恵子の言葉と智恵子の所作をただ技術的に磨き上げられたデッサン力により書き写しただけなのである。謂わば智恵子が光太郎の詩「智恵子抄」のゴーストライターなのである。勿論、光太郎は智恵子を知る以前から詩を書いていてそれなりに認められている詩もある。しかし、「智恵子抄」は異色であり、これこそ「仙」の世界であると・・・。
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Res:暁光庵 題名:あげる 投稿日 : 2004年1月4日<日>14時26分
age
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Res:冠蛙 題名:ageru 投稿日 : 2004年1月4日<日>15時57分
age いるか!! そんなもん
俺のもageru 持って毛よ!!・・・・でもお互い 鶴っぱ毛にはなりたくないな
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Res:葉子
投稿日 : 2004年1月4日<日>19時29分
田中様、こちらでははじめまして、
田中様、みなさま、どうぞ、よろしくお願い致します。
幸せな結婚生活、幸運な出会い・・・
それは外から見て分りかねるものではないのではと考えます。
当事者がそう感じているかどうかが判断の基準なのか、
それとも外側から見ての判断が正しいのでしょうか。
高村光太郎は、智恵子というひとを妻とすることで、
その妻の精神が壊れていくときに立ち会ったことで、
心に刻まれた感性が、
人々の心に残る詩を創り出したとしたなら、
智恵子は、芸術の頂を求めるものにとって、
まさに素晴らしい幸運の女神ではなかったかと、私は思うのです。
苦渋の汁を飲み干しながらの頬笑みは貴重なときではないでしょうか。
穏やかな暮らしを営むことだけが良妻といえるのでしょうか。
壊すことで自分を守るしかなかったその人の感性は、
光太郎を触発してやまなかったのではないかと。
肉体を消し、そうして智恵子は光太郎の芸術に溶け合い、
その女(ひと)の求めたものを作り出せたのではと。
個人的な嗜好を申せば、
私は、そうした形の愛もまた、
ほんとうに素敵だと感じ入るのです。
(たまには、不得手なことにも挑戦してみたいと、
個人的な私見を述べさせていただきました。汗)
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Res:いくママ 題名:最高のパートナー 投稿日 : 2004年1月5日<月>05時02分
葉子さま あけましておめでとうございます。こちらでは同じくはじめまして。よろしくお願いします。
葉子さまの書かれたものを拝見できてうれしい限りです。
最初から、頷いてばかりでした。そのとおりだと思います。
悪妻と呼ばれようが、高村光太郎にとっては最高のパートナーで
高村光太郎と智恵子は、芸術家としてお互いを触発できる最高のカップルだったのだろう、と思います。短いのですが、考えがまとまり次第、次回に続きます・・失礼しました。
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