小夜

 

 

香世が小夜を産んで以来

あれほどいた妊婦の姿が この街から消えてしまった

男の子の名前しか考えていなかったが

少しもがっかりしなかったのは何故だ

即座に 小夜という名をつけてしまっていた

それしか浮かばなかったのだ

香世は 自分の名と響きが似ていることに気を良くしている

あの小夜が 今はどうしているのか 私は全く知らない

今思えば はしかのような恋だった 

だが その恋こそ 私にとっては唯一の敵だった

克己とは恋を克服することにほかならなかった

ひとたび小夜のことを考えると もう 勉強どころではない

小夜に会わないこと 小夜のことを思い浮かべないこと

それが私の信条だった 

だが 何故 私はあんなことを言ってしまったのだろう

"君のために勉強する 君を幸せにするために必ずT大に入る"

私は落ちた

その恥ずかしさに 小夜の顔も見ないまま 上京して私大に入学した 

私が小夜について知っているのは 地元の国立大学に入学したところまでだ

遠い昔の思い出話だ

おや

おい 香世 ちょっと来てみな 小夜の手首が変なんだ

変って?? 左手首? 

ほら 少し赤いだろう 腕時計をすれば隠れる場所だけどな

あなたったら・・ どうかしてるわ 何ともないわよ
子煩悩もほどほどにしてよね
昨日も寝言 言ってたわよ 小夜 小夜・・って

痣は大きくはならないが だんだんはっきりしてきて
毎日 少しづづ 膨らんでくるのが解る

それでも 香世は 相変わらず 私を馬鹿にするだけだ

香世に内緒で医者に見せると

なるほど そういえば 鋭い刃物で切った痕が・・あっはは 気のせい 気のせい
生まれて半年のこの子に 10年も前についた古傷があるわけはない

そんな馬鹿な 痣も膨らみも医者にさえ見えないなんて

なんということだ

家に帰って小夜の手首を見ると

そこには 小さいながらもはっきりとした形

まぎれもない 高校生の小夜の顔だ

哀しそうな顔から 涙が一滴

それを拭おうとして 思わず唇を近づける



か細い声 "幸せにしてね 幸せになってね"

ぱんっと弾けて 黄色い膿が エプロンに飛散った

あなた 蜜柑なんて この子にはまだ早いのよ 
はい これ 郵便受けに入ってたわよ 

開封すると同窓会名簿 

錯乱した文字が 私の胸に突き刺さった 

桜木小夜 死亡

 

 

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