彼女であるはずがない。振り向かないで歩く。いや、振り向けないのかもしれない。あの
おばさんが、彼女であるはずはない。いつも下を向いて階段を掃除しているおばさん。顔
を見たことも無ければ、見たいと思ったことも無い。ただいつも、「おはよう」「お疲れさ
ま」のあいさつだけはする。そのおばさんの横顔が階段で擦違った一瞬、彼女の横顔だっ
た。僕はそのまま早足でまっすぐバス停に向かった。あのおばさん、いつもああやって階
段や教室やトイレを掃除しているんだ。僕が、毎日教壇に立たされてしゃべっているよう
に。バスの一番後ろの席に座った。いつのまにか、二人だけの貸しきりバスになっていた。
映画館でもそんなことがあった。喫茶店でも、そうだった。店の名は「ぶどうや」と言っ
た。懐かしくて海を渡ってあの鄙びた街に足を運んだことがあったっけ。でも既に、あの
喫茶店は無くなっていた。クリスマスも隅のテーブルで二人だけだった。僕が塾の講師を
しているのだから、彼女がビルの掃除婦をしていても不思議ではない。寧ろ、ほっとする。
もし、あのおばさんが彼女だったとしたら、そして、彼女が僕を僕だと知ったなら???
バスが止まった。混み合っていて顔は見えないが、女性の笑い声が聞こえてきた。
・・・あの頃と少しも変わっていないのね・・・。