六な話

小笹二十志

一話   セクシーな仏像(ほとけさま)

二話   悲しい蝶

三話   泥鍍金(どろメッキ)の観音様

四話   鯛(たい)の皮を着た鮒(ふ な)

五話  猫 股  (前編)尻尾で書かれた手紙

(後編)尻尾で書かれた話

六話   小夜  (1)小夜(2)思春期の小夜(3)小夜と七夕

(4) 花火の影 小夜(5)小夜とヤマンバ

 

 

  一話   セクシーな仏像(ほとけさま

 

 

 

昔、ある国にタナ・ギョウという名の若い托 鉢僧がいました。彼は好んで僧

になったのではなく、貧しい農家の三男坊として生まれたので体の良い口減

 

らしとして修行僧となったのでした。


ですから、彼は家々を托鉢して歩いている時でさえ、いつも自分の身を嘆い

ていたので、有難いお経に時々、「アホンダラ」とか「クソッタレ」とかを

混ぜて唱えていたのでした。そして、自分の糧さえ充分でない食糧をタナ・

ギョウに振舞う信心深い人々の恭しい態度を心の中で笑っているのでした。

ある日、タナ・ギョウがそんなふうにお経を唱え終えて、お米を恵んでも

らっていた時、向うから立派な牛車がやって来るのが見えました。

 タナ・ギョウは、物珍しさに近づいていきました。すると牛車に乗ってい

たのは、この世のものとは思えないほど美しいお姫さまでした。お姫様には

三人の重臣と三十三人の家来がお伴していました。

「お姫様の旅でのご無事を祈って私に是非お経を読ませて下さいますよう

に・・。」タナ・ギョウは三人の重臣の中で最も偉そうな男に申し出まし

た。重臣は、胡散臭そうに破れた袈裟を着たタナ・ギョウを見下しました

が、コトがコトだけに一応お経を読むことを許してやりました。

 ところが、お姫様は牛車の中からタナ・ギョウを見ながら、「ホホホ、こ

んな乞食坊主のお経なんか何の役にも立たないわ。」と言って笑いました。

タナ・ギョウは、お姫様の笑い方があまりに無邪気でホントに可笑しいと

いったふうな笑いだったので、それにつられて自分も一緒に笑ってしまいま

した。すると、お姫様と目が合って、二人で大袈裟に笑い転げてしまいまし

た。が、すぐにお姫様はツンとすましてそのまま牛車に乗って行ってしまい

ました。

タナ・ギョウはしかたなくその行列を見送っていましたが、行列の一番後に

ついてゆく大男が腹ペコでもうこれ以上歩けないというふうに見えたので、

タナ・ギョウは托鉢して貰った米や麦焦がしを全部その男にやりました。

「お姫様は、王様の大事な一人娘じゃが、何度見合いしてもこれぞと思う男

に巡り合えない。そこで隣国に大そう立派な仏様があるときいて、よいお婿

さまが見つかるように願掛けに行かれ、今はその帰りなのじゃ。」大男は麦

焦がしをモグモグ食べながら、タナ・ギョウに教えてやりました。

タナ・ギョウは相変わらずインチキなお経を読みながら旅を続けましたが、

乞食坊主と蔑まれたことも忘れ、隣国へ入ってからも、あの美しいお姫様の

姿が目蓋に焼付いてどうすることもできません。

「また夢か。」河原で目を醒まし顔を洗っていると、大木がゆっくりと流れ

てきて、彼の前でピタリと止まりました。不思議なことだと思いタナ・ギョ

ウが丸太を引寄せようとした時、ふと妙案が浮かびました。―――「この木

でお姫様を彫るのじゃ。」

タナ・ギョウは河原で三日三晩一息もつかずに夢中になって一気にお姫様を

彫り上げましたが、その場でぶっ倒れてしまいました。

気がつくと、タナ・ギョウは立派な御殿の内で寝かされていました。

「お目覚めですか。」召使が事の成り行きを説明しました。

「先日、王子様が河原をお通りかけになった時、あなた様が立派な彫り物の

横で倒れておられるのを見受けられて、こちらへお運びしたのです。」大き

な器に盛った果物を置くと、召使は王子様を呼びに行ったので、彫刻をもっ

てきてくれるように頼めばよかったと思いました。王子様はやはり彫刻を

もってきませんでしたが、挨拶もしないうちに王子様にお願いするわけにも

いきませんでした。タナ・ギョウは助けてもらったお礼を言いました。する

と王子様は、タナ・ギョウに丁寧に頭を下げて言いました。

「あなた様のような偉いお坊様に私の屋敷に来ていただいて、本当に光栄に

思っています。私は信仰心が篤く今迄にそれはたくさんの仏像を見てきまし

たが、お坊様がお彫りになった仏様ほど素晴らしい仏像を見たことは一度も

ありません。まさにあの彫刻こそ仏像の真髄です。」

タナ・ギョウは王子様の言葉を聞いているうちに、それが本当に自分が彫っ

た彫刻かどうか心配になってきましたが、

「詳しくご説明しますから・・。」と言って、王子様に彫刻をここへ持って

きてもらうようお願いしました。実はタナ・ギョウ自身、あまりにも一生懸

命彫ったので作品を夢心地でしか覚えていなかったのです。

王子様が持ってきたお姫様の彫刻を見て、タナ・ギョウは我ながら感心して

しまいました。

―――これならば、若い男であれば王子であろうと誰であろうと感心するは

ずだ。顔は、あの美しいお姫さまと瓜二つだ。それにあの薄衣はなんだ。ま

るでスケスケルックではないか。我ながら目の置き場に困ってしまう。だ

が、こうして見ると仏像に見えぬこともない。俺は歌というものを知らない

から、鼻歌代わりにお経を唱えながら彫ったのでご利益があったのかもしれ

ないなあ。

「やはり私の目にくるいはなかった。あの姫君は仏様の生まれ変わりにちが

いない。お坊様、実は私はこの仏像とそっくりの姫君を知っているのです。

それは隣国の王の一人娘でヤンチャ姫という名です。」ヤンチャ姫か、平凡

だな、でも悪くは無い名だ・・タナ・ギョウはそう思いました。王子様の目

は輝いていました。

「私は以前から姫に結婚を申し込もうと思っていたのですが、私も一人息子

であることから、王である父の許しがもらえなかったのです。でも、仏様の

生まれ変わりであるならば父も決して反対はしないと思います。一刻も早く

姫に結婚を申込むことにします。」

お姫様が誰と結婚しようと、どうせ自分と結婚できない以上、関係ないこと

だとタナ・ギョウは思いましたが、この馬鹿王子と結婚させては、お姫様が

可哀想だと思ったので威厳をもってこう応えました。

「私はヨーロッパのある大国の王子ですが、ヨーロッパにはまだ仏教が伝来

していないので、是非東方の国から仏教を学んで、我が国にも布教しようと

思い、このような乞食同然の姿に身をやつして行脚しておるのです。私がい

つものように家々にお経を唱え終えて、あの河にさしかかったところ、丸太

がゆっくりと流れてきて私の前でピタリと止まったのです。そして、その中

から微かに声が聞こえてきたので、丸太に耳をくっつけて聞いてみると、

『苦しい、助けてくれ。ここから出してくれ。』その中から声が確かに聞こ

えてきたのです。私はただ驚いてどうしたらよいものかと思ってお経を唱え

て仏様に訊いてみました。すると、天から声が聞こえてきたのです。『この

者は悪魔という生き物じゃ。仏を畏れぬ極悪非道な生き物ゆえ、見るに見か

ねて、このような丸太に閉じ込めて河を下らせたのじゃが、時が来た。悪魔

といえども元は人間。功徳を積めば生き仏となって蘇ることもできる。当分

の間、お前に預けるから、この丸太から出してやりなさい。』声が止むと、

私の目の前に鑿と槌が現れたので、私は一心不乱に丸太を彫り続け、彫り終

えたとたんに精魂尽き果てて倒れてしまったらしいのですが、夢の中にも仏

様はおいでになり、このように言われました。『タナ・ギョウよ、よく聞

け。お前が彫り出したものは、百面相仏鬼という名の仏の顔をした悪魔

じゃ。この悪魔は、邪悪な者百人の顔形に変わることが出来る。この悪魔が

現している顔形の者に近づいた者は、地獄に堕ちなければならない。決し

て、その者に他人を近づけてはならぬぞ。』そして、気がついたらこちらの

御殿に寝かされていたというわけです。」

王子様は、蒼褪めた表情で、タナ・ギョウに尋ねました。

「お坊様、それでは、あの美しいヤンチャ姫は、仏様の生まれ変わりではな

く、悪魔の化身だとおっしゃるのですか。」

「そうです。あの姫は、あなたを誘惑するために、あのような美しい姿をし

ているのです。仏様は悪魔にも美をお与えになりました。それは、人の良心

をお試しになるためなのです。あなたは決して悪魔の美貌に騙されてはなり

ません。それによく見て下さい。あの毒々しい肢体。」

「セクシーだ。」王子は溜息をつきました。「そういえば、仏様にしては少

し色気がありすぎる。」王子はがっくり肩を落としました。

その話を聞いた王様は、「息子の危ないところをお助け下さって有難うござ

いました。もし、隣国の姫を嫁に迎えでもしたら、戦争でも起きかねないと

ころでした。何しろ隣国の王の跡継ぎがいなくなってしまうのですから。実

質的な国の乗っ取り行為だと思われても仕方がないところでした。」と言っ

て、お礼にタナ・ギョウに三頭立ての馬車と八十八人の家来を与え、王子様

が一番気に入っている宝石を散りばめた絹の服を着せて見送りました。

「ヨーロッパのあなたの国へ帰られましたら、是非あなたのお父上であらせ

られる大王様に宜しくお伝え下さいますよう・・」

タナ・ギョウは、なんだか狐につままれているような気持で馬車に乗ってゆ

きましたが、

「これならば、誰が見ても自分を大国の王子と思うに違いない」と思ったの

で、チャンスだとばかり、見送りの姿が見えなくなると、方角を変えヤン

チャ姫のいる国へ戻っていったのでした。

城の近くまでタナ・ギョウの行列がゆくと、立て札がたっていて、こう書い

てありました。

―――仏像のコンテストを行う。優勝したものには、姫を嫁にとらせ、この

国の王とする。

タナ・ギョウは、しめたと思いました。どうせ、ブルジョア趣味の王様など

に、仏像の良し悪しなど解かるわけが無い。コンテストの判定基準は『どん

な出来ばえの作品かではなく、だれ(・・)がが出品した作品か』であるにち

がいない。ヨーロッパの大国の王子の作品であれば、王様もきっと気に入る

にちがいない。

タナ・ギョウは、さっそく城に入り、「私はヨーロッパの大国の第三王子だ

が、この仏像を出品する。」と言って、彫刻を馬車から降ろして会場に陳列

しました。

一方、王様もコンテストに出品する仏像を用意していました。王様は仏像マ

ニアでありましたので、国民から年貢を搾れるだけ搾り取ってありとあらゆ

る仏像を買いこんでいましたが、イマイチ何か満足できないでいました。そ

れは何かとよく考えたところ、一つとして自分に似た仏像が無いということ

でした。王様は自分のお気に入りの仏師に自分を彫らせ、仏像とするよう言

いつけました。そして待望の仏像が出来上がったので、それを出品して、自

分がコンテストで一位になることを決めていました。

なにしろ最終決定権は自分にあるのですから。そして、ヤンチャ姫は自分の

嫁にするつもりだったのです。

王様は、先月妻が不倫しているところを見つけ、三行半(みくだりはん)を

書いて、国外へ追放したのですが、念のために娘のヤンチャ姫のDNA鑑定

もしたのでした。判定の結果、残念ながら、娘だと思い続けてきたヤンチャ

姫は実の娘ではないことが判かりました。冷静になってみると、王様にとっ

ては好都合であることが解かったのです。王様の仏像を見る基準は、どんな

高名な仏師が、どれだけの金をかけて創ったものであるかということでし

た。一事が万事、娘が娘であるための理由は、自分との血の繋がり、自分の

遺伝子を受継いでいるかどうかと言う事だけでした。自分の血が流れていな

い者は、自分の娘であるはずがない。自分の娘でなく、それがいい女なら、

当然自分の結婚の対象として充分考える価値のあることなのでした。

王様は自分の仏像を仏教大臣に陳列するように命じて、自分の書いた表彰状

を自分が読み上げ、自分が受け取る―――そんな晴れ姿を想像し、胸をはず

ませていました。王様は表彰状を受けるために一番上等の服を選んで、会場

へ入って行きました。

 入場するやいなや、王様の目には、一つの仏像を取り囲むようにして群

がっている黒山の人だかりが、入ってきました。てっきり、自分の像の前に

集まっているのだろうと思い、王様は内心満足に思って、群集に近づいてい

きました。みな、褒め称えて話し合っていました。

「こんなすばらしい仏像は見たことがない。ラディカル且つリアリティーに

富んでおる。これからの仏像はこうでなくてはならぬ。」

「やはりヨーロッパの大国の王子様が出品されただけのことはある。」

王様は、はて、と思いました。人をかき分けて仏像が見える位置へ達して見

ると、その仏像は、自分が出品したものではなく、ヤンチャ姫と瓜二つの仏

像ではありませんか。しかもあろうことに、その姿は、まるでストリップ嬢

のそれではないか。おまけに誰も知る者はいないはずの右内腿にある小さな

☆形のホクロまでがはっきりと彫りこまれている。押し合い圧し合いで像を

見るのが精一杯で、誰も王様に気づく者がいない様子を幸いにして、王様は

逆上する自分の心を抑えて、その場をス〜っと抜けて、自分の部屋に戻って

ゆきました。

王様は少しの間、頭を冷やしてから、ヤンチャ姫を呼びつけました。

「何でしょうか。お父様」

「お父様だと。まあ良い。だんだん母親に似てきおって。ヤンチャ姫、服を

脱ぎなさい。」

「なんですって」

「服を脱いで、おまえの体をわしに見せろと申しておるのじゃ」

ヤンチャ姫が躊躇っていると、王様はヤンチャ姫の服を強引に剥ぎ取ってし

まいました。

「お前はなんというふしだらな女だ。やはり母親の血をたっぷりとひいてお

る。その内腿のホクロ、☆形のホクロ、お前はいつあのタナ・ギョウとかい

うヨーロッパの王子の前で裸になったのじゃ。」

「お父様、私はそのような者の名前も知りません。」

「うむ、お前の母親もそのように言ったため国外へ追放せねばならなくなっ

た。」王様は司法大臣を呼びつけ、姫を監禁してしまいました。

王様は、タナ・ギョウをすぐに殺してしまおうと思いましたが、なにしろ

ヨーロッパの大国の王子を殺したとなると戦争になると思いました。戦争に

なってもGDP1%以内の軍事費の戦力では、とてもヨーロッパの大国に勝てる

わけがありません。王様は少し仏像を買いすぎたことを後悔しましたが、仏

像はただ陳列しておくだけではなくて、拝むものであることを思い出しまし

た。

王様は、仏像コンテストの発表日を延期するように大臣に命じました。そし

て、タナ・ギョウと家来を晩餐会に招待することにしました。

王様は給食大臣に命じてタナ・ギョウ達の食事の器に、アホウになる薬を入

れさせていたのでした。タナ・ギョウもその家来達も、アホウになれば何も

かも忘れてしまうので殺る必要もなくなるとおもったのでした。

たくさんの仏像が飾ってある食堂へタナ・ギョウを案内して、王様は、食事

の前のお祈りをしました。王様は仏像を拝んだのは初めてのことでした。

『どうか、私の計画がうまくいきますように。でなければ、私はこの者ども

を殺さなければならなくなります。ヘタをすると私も殺されます。私が殺さ

れればあなた方仏像も焼かれてしまうかもしれません。どうか他人事と思わ

ないで、自分の身になって考えてみて下さい。』

タナ・ギョウも祈りました。『私は、ヤンチャ姫に会いたい一心でこの城に

やってきましたのに、未だ、姫の姿を見ておりません。どうか、一刻も早く

姫に会わせて下さい。』

お祈りが終わると、給食大臣が数人の部下を連れて食事を運んできました。

給食大臣は、タナ・ギョウの顔を見て一瞬びっくりした顔になりましたが、

すぐにすまし顔になって、自分でタナ・ギョウのところへ食事を運んで、タ

ナ・ギョウに笑ってメクバセしてみせました。タナ・ギョウは、給食大臣

が、以前自分が托鉢していた時にお姫様の行列に出会った時、行列の一番最

後についていた大男であったことに気づきました。あの時食べ物をやったこ

とを思い出しました。メクバセの意味は多分その時のお礼として、自分があ

の時の乞食坊主であることを王様に知らせないでやる、という事だろうとタ

ナ・ギョウは思ったのですが、本当はそれよりももっと重要な事でした。

タナ・ギョウは思いました。『適材適所とは良く言ったものだ。あの腹ペコ

の大男が給食大臣に出世しておるとは。仏様のお導きとは有難いもの

じゃ。』

タナ・ギョウは何だか、自分が僧の衣を纏っている時よりも坊主くさい事を

思うようになってきたと思いました。

ご馳走は見た目も美しく、大そう美味しい物ばかりでしたので、タナ・ギョ

ウは満腹になるまで食べました。デザートの果物を食べながら、タナ・ギョ

ウは隣の席で食べている王様に尋ねました。

「王様、大変おいしいお食事を戴き有難うございました。ところで、お姫様

はお元気でいらっしゃいますでしょうか。」

「なに、なに、お姫様とな。ひめ、ひめ、ひめ、ひめ、えひめけん、う〜

ん、ひめなあ、ひめとは一体なんのこっちゃ。わしゃ、知らんのう。」

タナ・ギョウは、てっきり王様がワインを飲みすぎて、酔っぱらってしまっ

たのだろうと思いました。ところが、変なのです。自分の八十八人の家来は

皆、目つきがおかしくなって一人でへへへと笑ったり、隣の席の者の食事を

平気でつっついたり、フォークを反対に持って食べたり、ともかくみんな変

なのです。

給食大臣がタナ・ギョウに近づいてきて話しました。

「王様は、あなた様にコンテストで優勝され、お姫様を取られてしまうのが

嫌なので、食事にアホウになる薬を入れて、あなた様をアホウにして何もか

も忘れさせてしまうつもりだったのです。それで、私は、王様の食事とあな

た様の食事を取りかえて、お配りしたのです。王様の仏像道楽のために国中

の者が皆迷惑しています。私も出世して大臣になれたから良かったものの、

それまでは食うや食わずで、いつも腹ペコでした。」

タナ・ギョウは大男から事の次第を聞いて危ういところを助けて貰ったお礼

を言い、其れから尋ねました。

「お姫様はお元気ですか。」

「はい、お元気です。けれども王様に監禁されておしまいになってからは、

いつもションボリされて、食事もあまりとられないようです。でも、もうご

覧の通り、王様はアホウになっておしまいですから、怖くはありません。こ

れからお姫様のところへご案内します。」

大男の給食大臣は、タナ・ギョウを案内しました。

ヤンチャ姫は窓から星を眺めていました。

『私は、どの星で生まれたのかしら。こんなにたくさんある星の中のどれか

一つの星で生まれたのよ。だから、私の腿には星形のホクロがあるのよ。星

においでになる私の本当のお父様、私の本当のお母様、昨日までの私の我儘

をお許し下さい。私は今迄、母でない女を母と思い、父でない男を父と信じ

ていました。そして、偽両親の我儘を真似、私も当然のごとくその我儘を貪

り血肉を作ってまいりました。どうか私の罪をお許し下さい。きっと、私の

お婿さまも星においでのお父様とお母様が見つけてくれるに違いないわ。』

ヤンチャ姫がそんな事を思っていると、星が一つ流れました。その時どうい

うわけか、牛車の中から見た若い托鉢僧の笑顔が浮かんできました。姫に

は、あの時の出来事が今ではとても素晴らしい出来事のように思えてきてい

たのです。姫は今迄一度も自分以外の誰かと一緒に心から笑ったということ

はなかったのです。あの托鉢層と一緒に心から笑えたのが嬉しかったので

す。

ヤンチャ姫は目を閉じて、托鉢僧の笑顔が心の中から出て行かないように手

を合わせて瞑想にふけっていました。

「お坊様、あの時は乞食坊主などと言ってごめんなさい。私は、いつの間に

かあなた様のことが忘れられない人になってしまったようです。どうか、も

う一度私の前にお姿をお見せ下さい。そして、私をお嫁にもらって下さ

い。」

タナ・ギョウが、そ〜っと部屋に入ってゆくなり、いきなり、そんな姫の言

葉が耳に入ってきました。タナ・ギョウはてっきり担がれているものと思っ

て、姫に向かって言いました。

「よろしい。だが、姫の願いを叶えるためには、仏様のおっしゃる事をせね

ばならぬ。よいか。」

ヤンチャ姫は、部屋には自分しかいないと思っていたのに、声が聞こえてき

たので、びっくりして目を開きました。なんと、そこにいるのは、破れ衣で

はなく、宝石を散りばめた絹の服を着たあの時の若いお坊様ではありません

か。

「はい。何でもします。」姫は嬉しさをこらえて、厳粛な顔をして答えまし

た。

タナ・ギョウは調子に乗って言いました。

「今年は日照りが続き、このままでは作物が何一つできないだろうと、農民

たちは困り果てております。どうか仏様、天から米と麦を降らせて、皆を助

けてやって下さいませ。と私がお祈りしたら、仏様はこうおっしゃった。

『タナ・ギョウ、わしはお前の言うことをきいてやっても良いと思ってい

る。しかし、それには条件がある。わしは、ヤンチャ姫のストリップが見た

いのじゃ。』姫様、仏様は本当にそうおっしゃたのです。」

タナ・ギョウが真顔でそう言うと、ヤンチャ姫は俯いて紅くなっていました

が、急に衣服を脱ぎ捨てて下着一枚になって天守閣の屋上に上がって、踊り

始めました。

タナ・ギョウは、呆れながらもその艶やかさに見とれていました。青空の下

でヤンチャ姫は肢体をセクシーにくねらせて踊っています。

やがて風がでてきて、いつの間にか黒い雲が天を覆い尽くし、あたり一面闇

のようになってきましたが、ヤンチャ姫の内腿の☆形のホクロが微かな光を

放っているらしくて、姫の肢体だけが、ベールのような下着を靡かせて、ぼ

んやりと宙に浮かんでいるように見えました。

姫は踊りながら祈っています。『どうか米と麦をお恵み下さい』

雨が降ってきました。雨はだんだん強くなりヤンチャ姫の下着は膚にぴった

り付着して、体の線が一層露わになってきました。その姿を、タナ・ギョウ

は息を殺して見ていましたが、急に、「雨だ、雨が降ってきたぞ!!」と大

声で叫びながら天守閣を下り、城の門をくぐって、自分の両親の住む家に向

かって走ってゆきました。

ヤンチャ姫は、その事にも気づかず、いくら祈っても、降ってくるのは雨ば

かりなので、半ば涙を流してヒステリックな叫び声で天に向かって祈り続け

ました。

「仏様、どうか雨ではなく、麦と米を降らせてください!!」

ヤンチャ姫は、“耕作する”ということを知らなかったので、農民は天に

祈って、仏様から米や麦を降らせてもらうものだと思っていました。ですか

ら、ヤンチャ姫はびしょ濡になっていつまでも祈り続けたのでした。

雨の中を走って自分の故郷へ着いたタナ・ギョウは、口減らしとして村から

出されたことも忘れて、ただ懐しさだけが込上げてきました。

「田植えの時期になったら、家に帰って手伝っておくれ」と、タナ・ギョウ

が村を出る時、母親から言われていたのを、雨が降ったので急に思い出した

ので、タナ・ギョウは急いで村に帰ってきたのでした。

家では両親と兄弟姉妹がみんなで田植えを始めていました。みんなはタナ・

ギョウの姿を見つけると、どこかの王子様だと思って、畦道に出て土下座を

しました。

「おっとお、おっかあ、俺だよ。」

タナ・ギョウは顔を覗き込んで声をかけました。

息子の顔を見た父親は、キンキラキンの服装を見て言いました。

「お前はなんという罰当たりなやつなんだ。いくら貧しくても悪いことだけ

はしないですむようにと思い、お前を僧にしたのに。その服はどこで盗んで

きたのだ。」

今までの出来事を話しても信じてくれません。母親があり金をはたいて袈裟

を買って持たせてくれたことを思い出しました。タナ・ギョウは、その袈裟

を隣国の城の更衣室のゴミ箱に捨ててきたのでした。タナ・ギョウは母親の

顔を見ていると涙がこぼれてきそうでした。

タナ・ギョウは、皆と一緒に恵みの雨を降らせて下さった仏様に感謝して、

一生懸命田植えをしました。

田植えが終わると、タナ・ギョウは、家族と名残を惜しみました。

タナ・ギョウは、虹の下の道をヤンチャ姫のことを思って急ぎました。

ところが城へ着いてみると告別式が行われていました。なんと、それは、ヤ

ンチャ姫の告別式だったのです。タナ・ギョウが田植えをしている間に、姫

はあまりに長時間、激しい雨に打たれていたため、肺炎になって高熱を発

し、亡くなってしまったのでした。

柩の中の花に囲まれて目を閉じているヤンチャ姫の姿を見て、タナ・ギョウ

は涙を流し焼香し、念仏を唱えました。

大臣たちは、タナ・ギョウの姿を見つけると、涙を流して頼みました。

「王子様、どうかこの国の王様になって下さい。ご承知のように王様は、ア

ホウになっておしまいですし、頼りのお姫様もお亡くなりになってしまいま

した。私たち大臣の中には王様になる資格のある者は一人もおりませんし、

国の治め方を心得る者もおりません。」

タナ・ギョウは、ヤンチャ姫のいなくなった城に残る気持ちはどうしても起

こってきませんでした。

「私には、仏教を学んでヨーロッパの自国へ伝えるという大事な使命があり

ます。ですから、この国にいつまでも居る事はできないのです。それに、こ

の国には、王様の資格のある者がいます。それは、給食大臣、あなたです。

国の治め方は簡単です。今、このお城の大広間に陳列してある数えきれない

数の仏像を、この国の全部の家庭に一体づつ配り、全国民に仏の恵みを与え

るのです。そして、これからは仏像をつくるための税金は国民から一切徴収

しないことにするのです。それで仏教大臣はもう必要なくなりましたのでポ

ストを廃止して、現仏教大臣あなたは、給食大臣の後任にあたればいいでは

ありませんか。」

皆が賛成したので、タナ・ギョウは、王様になった大男に言いました。

「君が王様になって、国民は喜んでいると思うよ。だから、君が満腹できる

だけの食物を皆が手にいれることができるようにしてやっておくれ。」

タナ・ギョウは、馬一頭だけを連れて、自分が彫ったヤンチャ姫の像を乗せ

て、また旅に出ました。

菩提樹の林にさしかかった時に日が暮れたので、タナ・ギョウは馬から、姫

の像を下ろして、懇ろにお経を唱えた後、眠りにつきました。

確かに眠っているのですが、体を揺する者がいる事に、タナ・ギョウは気付

いていました。薄く目を開けると、その途端に閃光がタナ・ギョウの目を打

ちました。その光は姫の股間から出たように思えました。暫くしてまた目を

開けると、月の無いせいか、像の内腿にあるはずの☆形のホクロがなくなっ

ているように見えました。タナ・ギョウはいつの間にかまた目を閉じて眠っ

てしまったようです。

眠っているタナ・ギョウに声が聞こえてきました。

「あなたって嘘つきね。麦や米は天からではなくて地からとれるんですって

ね。仏様が教えて下さったの。あまりしつこく、米や麦をおねだりしたの

で、『地へ降りてとってらっしゃい』って、仏様の国から追い出されちゃっ

たの。私。今度は星で生まれたのじゃないわ。私、ここで生まれたの。二人

でここを耕して米と麦を作りましょう。そして、ここに小さな家を建てて二

人で暮らしましょう。」

暖かい息と、柔らかくて張りのある肌の温もりが、心地よく伝わってくるの

をタナ・ギョウは、眠りながら感じていました。

「わたしをお嫁にもらってくれるでしょう」

そんな声や感触が、眠りの内側から伝わってくるのか、それとも外側からな

のか、タナ・ギョウは知ることができないほど、ぐっすりと眠り込んでいる

のでした。(了)



  二話  
悲しい蝶

 

 

 

長かった冬もようやく終わったので、

二匹の毛虫が畦道を這って散歩に出かけてゆきました。

二匹はいつの間にか大きな道に出ました。

「ひゃあ、これが国道っていうミチなの。広いわねえ」

「ホント、でもおとなになれば、こんな道、ほんのひとっ飛びよ。

私、もうじき、美しい蝶になるんですもの。デス子、羨ましいでしょう」

毛虫の萌子は、そう言いながら空を飛ぶ真似をしたら、

バランスを失ってひっくり返ってしまいました。

「ヒャッヒャッヒャッ」

それを見て、デス子は腹をかかえて笑いました。

「そりゃあ、どうせ萌子は蝶の子、私は蛾の子、

でも今は誰がみても毛虫の子なんだから。

ミス毛虫に選ばれたからって気取るんじゃないよ。

私より少しウエストが細いだけなんだから」

「誰がみても毛虫の子ですって。そんなはずないわ。

私は蝶の子よ。そしてアンタは蛾の子なの。

胴が太くて恥ずかしくて昼間は飛べないものだから、

夜ばかり飛び廻っている娼婦の子なんかと一緒にされてたまるものですか」

「言ってくれるじゃない。そんなら、

アンタを避けて車が通ってくれるかどうか、この国道を横切ってごらんよ。

ミス毛虫」

「ああ、いいわよ。でも、そんなことは、

先ず言いだしっぺからやってみせるものよ」

萌子は、苦しまぎれにそう言いました。

デス子は、

なんと言うヘンチクリンなこたえが返って来たのだろうと思いましたが、

それを指摘すると、

なんだか自分の方が喧嘩に負けたことになるような気がしたので、

「うん、いいよ。でもアタイはどうせ蛾の子だから、

夜しかやらないからね。今晩、この国道を渡ってみせるよ。

だから、アンタは、明日、太陽が昇ってきたら、渡りなさいよ」

と言ってしまいました。

夜になりました。萌子は、

デス子はホントにこの国道を渡るつもりなのだろうかと思いました。

車に轢かれてしまう、そう思いました。

「デス子、やめなよ。蛾は娼婦なんかじゃないよ。

そんなに悲観しなくても・・。死ぬのはまだ早いよ」必死でとめました。

デス子は、その言葉を耳にすると、ますます頭に来て、

国道を渡りはじめました。

夜中は交通量もかなり減っていましたので、

デス子は真中あたりまで、どうにか無事に渡りました。

が、ついにダンプが走ってくる音が道路に伝わってきました。

デス子は恐怖のあまり、一歩も動けなくなって、

その場で蹲ってしまいました。

すると、運の良いことに、ダンプの轍はデス子の両側にできたのでした。

デス子は急いで渡り、ついに最後まで渡りきったのでした。


朝になりました。ラッシュ時です。今度は萌子の番です。

いつの間にか、デス子は友達をいっぱい連れてきて、

萌子がこれから国道を渡るところを見物するのだ、

と言ってはしゃいでいました。

友達は皆、

「いくら人間が野蛮だからといっても、

君のような美しい毛虫を轢殺すようなことはないさ」

と言って励ましました。

車はひっきりなしに走っています。

萌子は蝶の神に祈って国道へ入りました。

そして萌子は

『しまった、毛虫の神様にお祈りするのを忘れていた』と思った瞬間、

スポーツカーに轢かれてしまいました。

その上をダンプカー、消防車、ちり紙交換の車と、

次々に走ってゆきました。

萌子のみどりの黒毛はタンポポの綿毛と一緒に、ふわり、ふわりと、

気持ち良さそうな春の空へ飛んでゆきました。

それを気が抜けたような顔で毛虫の仲間たちは黙って見ていましたが、

急にデス子が「ワァ〜」と泣きだしたので、

みんな、悲しくなって涙が出てきました。

それからしばらくして、デス子は空が飛べるようになりました。

ある晴れた日、デス子は友達の直子のところへ行きました。

「直子ちゃん一緒に遊ぼうよ」

「なに言ってんのよ、デス子。昼間っから。眠くてしかたがないわ」

デス子は、今度はメメ子のところへ行きました。

「メメ子ちゃん一緒に遊ぼうよ」

「うん、でも、私、昼間は眩しくて駄目なのですん。ごめんなさいですん」

デス子は毛虫時代のボーイフレンドのことを思い出しました。

「暁ちゃん、いますか」

ドアを開けると、お姉さんが出てきたので、デス子はききました。

お姉さんは不機嫌な顔で、何も言わずに、奥へ引っ込んでゆき、

奥の方から声が聞こえてきました。

「暁ちゃん、お姉さんがあれほど教えてあげたのに、まだ解からないの。

蝶の子をひっかけちゃ駄目よ。昆虫図鑑見せてあげたでしょう。

あの手の柄の羽をつけている虫は蛾じゃなくて蝶なの」

「俺は蝶なんかナンパした覚えないよ」

暁ちゃんは、デス子の顔を見て、

「やっぱ、しらないなぁ。何かの間違いだよ」

と言ってドアを閉めてしまいました。

しかたなく、デス子は、しばらくの間一人で空を飛んでいましたが、

少し疲れたので、サツキの花の上に止まって羽を休めていました。

すると、向こうの方から黄色い蝶が二匹上になったり下になったり。

多分恋人どうしでしょう。デス子を見て言いました。

「なんて、行儀の悪い蝶なんだろう。羽を拡げたまま、

とまっているなんて。まるで蛾みたいだ」

「ホント、あなたを誘惑しているみたい。いやぁねえ。

あんなにウエストが太くって、まるで蛾みたい」

二匹が去った後には、

ポカポカの青空が知らん顔してデス子の上に浮いていました。

 

 

 


  三話  
泥鍍金(どろメッキ)の観音様

 

 

昔、美作の国に質の良い鉄が採れる鉱山があった。

ある年、国の役人が人夫を何十人も集めて穴にもぐらせて鉄を掘っていた。

ところが何のひょうしか、

山にあった大きな穴の口が崩れて塞がってしまった。

穴の中で働いていた人のうち六助という名の男だけが、

穴の中に取り残されてしまった。

慌てふためきながらもやっと抜け出ることができた人夫達は、

その男はもう助からないだろうと思った。

報告を受けた役人は、六助の妻子に同情しながらも、

ありのままの事実を知らせた。

役人は六助の妻子の涙をみているうちに自分の役目が嫌になってきたが、

御上の命令なので止めるわけにもいかない自分の因果をうらめしく思い、

紙に観音様の絵を描いて鉱山の岩に貼り付けて拝んだ。

それを見た妻や子は、一緒に合掌して夫が成仏できるように祈った。

口の塞がってしまった穴の中で死んだと思われていた六助は、

長い間意識を失っていたが、ふと、穴の中で目を醒ました。

闇の中で六助はしばらくぼんやりとしていたが、

頭にたんこぶがあるのを見つけ、

自分の頭の上から岩が崩れ落ちてきたことを思い出した。

「自分はなんと運の良い男だろう。

あれほどの山崩れで、俺は命をとりとめることができたのだから」

これも仏様のおかげだ。

六助は独り言をいって、死んでしまっただろう運の悪い仲間達のために、

お経を唱えた。

しかし、あんまり熱心にお経を唱えたので腹が減ってきた。

今度は、自分のために摩訶般若波羅蜜多心経を唱えたが、

一向に埒があかない。そこで六助は考え直してみた。

俺は何か悪いことをしたのでは。

それで仏様が罰をお与えになったのではないか。

だが一体、俺はどんな悪い事をしたというのだ。

朝から晩まで家族の為に働きづくめだ。酒も正月以外は一切飲まない。

贅沢などしたことはない。

まして盗みや殺しなど一切身に覚えはないことだ。

この世で悪い事をした覚えがないとしたら、

前世で俺は罪を犯したのだろうか。

俺は前世でのことは何一つ憶えていない。

憶えていない自分など自分とは呼べない。

自分で自分と呼べないものを仏様は、自分と呼べとおっしゃるのだろうか。

そして罰をお与えになるのだろうか。

六助は、お経を唱えた後、又、考えた。

―――仏様が罰をお与えになったのは、俺が鉄を掘ったからに違いない。

俺は、掘り出した鉄で何かを作ったおぼえは無い。

だが、聞くところによると、俺たちが掘った鉄で刀が作られているという。

ひょっとすると、俺が掘った鉄で刀が作られ、その刀で、

人が何人も殺されたのかもしれない。

なんというおぞましい事だ。

だが、何故、鍋が作られないで刀がつくられたのだ。

刀を作ったのは俺ではない。それでも、仏様は俺を罰せられるのか。

それは、鉄さえ掘らなければ、

刀を作ることができなかったという理由でだろうか。

俺には耕す土地が無い。

だから、お役人に従って生計をたてているのだ。

もし、鉄を掘らなければ、俺も家族も飢死にしてしまうだろう。

それでも仏様は、俺を罰せられるのだろうか。

六助は、又、お経を唱えて考えた。

―――俺が掘った鉄で刀が作られたかもしれない。

だが、刀が作られたとしても、

その刀でまだ人は斬られていないかもしれない。

人が斬られていなければ、まだ俺は罪を犯したとは言えないはずだ。

それなのに俺はこんな岩の中に閉じ込められている。

仏様は時間を越えておられるので、これから起こるべき犯罪も見通して、

前もって罰を与えられたのだろうか。

六助はだんだん疲れてきて、腹が減っている感覚さえ朧になってきた。

六助はそれでも、心をこめてお経を唱えた。

―――仏様、もし私が前世で罪を犯しているのでしたら、

どんな罪を犯したのかをお知らせ下さい。

仏様が私をこの世に置いて下さる限り、

私は私の罪を償うためにのみ生きるつもりです。

仏様、もし、私が掘った鉄で作られた刀によって

斬殺された人があるのなら、その人の魂をお救い下さい。

仏様、もし、私が掘った鉄で作られた刀によって

まだ人が斬られていないのでしたら、

どうか、その刀で人が斬られることのないようお守り下さい。

仏様、私は仏様のおっしゃることなら何でもお聞きします。

また、仏様が私に罰をお与えになるのでしたら、

それがどんな罰であろうと私は喜んでお受けします。

仏様、どうか、私が今すべきことが何であるかをどうかお教え下さい。

仏様・・・。

六助は一心に心の中で祈った。

が、いつの間にか疲れ果てて眠ってしまった。

眠ったままで六助は夢の中でお経を唱えていた。

だが夢の中の六助は自分一人で拝んでいるのではなく、自分の妻と子、

そして役人が一緒に拝んでいた。

すると、その夢の中へ美しい観音様がお姿を現され、何も言われずに、

すぐにす〜っと姿をお隠しになった。

と同時に、六助の夢は醒めた。醒めた六助の耳に、

どこからかお経を唱える声が聞こえてきた。

六助が今いる世界は東西南北とも闇と静寂以外には

何も無い世界であったので、遠くから聞こえてくるお経の声は、

過去からのものとも、未来からのものとも思えた。

六助は、その遠くから聞こえてくる声に合わせて、自分もお経を唱えた。

すると、お互いの声が共鳴して、神秘的な一つの声を創り出し、

穴の中に響いた。六助は、まるでそれを仏様の声だと思った。

六助は唱え続けた。どのくらいの間唱え続けただろうか。

そしてその瞬間がいつであったろうか。

地が裂けるような大音響とともに、岩が崩れ落ちたのだ。

だが、六助の頭にはたんこぶはできず、

目の前に眩しい光がたちこめていた。

そして、しばらくして六助は、光の中に三つの影を見つけることができた。

それは、まさに、妻と子と役人の姿をした観音様―――六助にとっては

そうであるにちがいなかった。

六助は妻子を抱き上げ、役人に跪いて改めて仏様に感謝した。

役人は驚いた様子で六助に上から下まで目を這わせて、

そして、先ほど崩れ落ちて開いた穴の方を指差した。

なんと、崩れ落ちた岩は、単なる岩ではなく金塊だったのだ。

顔を見合わせ、しばらくの間、六助と役人は、

不思議な出来事を話し合った。

そして、六助は自分が生き埋めになってから

今日が四十九日目であることを知って驚いた。

自分ではほんの二、三日のような気がしていたからだ。

それから役人は、自分が描いて岩に貼り付けておいた観音様の絵が、

急に紙の上から抜け出されて、その瞬間に岩が崩れたのを見たと言う。

不思議がって皆で紙を探したが、土砂の下敷きになったのか見当たらない。

二人は金塊をどうするか考えた。

考えたが、何の為に仏様が、

自分達に金塊を下さったのかが解からない限り、その使い方も解からない。

そこで、二人は仏様に祈ってお窺いをたてたが、ご返事が無い。

正直者の二人は、

“それでは、この世の法に従って御上に届け出るのが

最も良い方法ではないか”と思ったが、

ふと、六助は、

“俺をお助け下さったのは、仏様であって、御上ではない”という事に

気がついた。

六助が役人にそのことを話すと、役人は、

「それもそうだ。あの世からの贈り物に違いない。

今日は六助の四十九日の法事なのだから、この世ではなく、

あの世の法に照らしてこの金塊を使うのがよかろう。

第一、御上に報告すれば、この金塊を売って、

刀や槍を買うに決まっておる。

そうすれば、又、何人かの者が殺されるに違いない。

仮に殺されないにしても決してプラスになるとも思えぬ。

しかし、一体、何に使うべきかのう。

皆に分けてやっても良いが、そうすると、すぐに御上の耳に入る」

首をひねった。

六助は言った。

「お役人様、この金塊で観音様をつくりましょう。

観音様にこの世を見張って戴きましょう。

私たちが掘った鉄が刀ではなく鍋に使われるよう見守って戴きましょう」

二人は力を合わせて、大きな黄金の観音様をつくりあげた。

二人は何も考えずにつくったのだが、その観音様の姿は、

六助が夢に見た姿と全く同じであり、

また、役人が自分で描いて鉱山の岩に貼り付けたものと全く同じであった。

二人は大いに満足して、手を合わせて拝んだが、

役人は、その眩しい観音様を見て、ため息をついた。

「これでは、一目で黄金で出来ていることが解かってしまう」

すると、六助は、お経を唱えた後、背伸びをして、

仏様の顔へ泥を塗り始めた。役人は驚いて怒鳴った。

「六助、お前は、観音様の顔へ泥を塗るのか」

「いいえ、お役人様、観音様が私たちをお守り下さるように、

私は、観音様を御上からお守りするのです。

そうすれば、観音様は、御上さえもお守り下さるはずです」

「なるほど、そうすれば、観音様は、この泥のような清い泥ではなく、

汚い本来の泥を、御上から塗りたくられるのを免れることが

お出来になるわけか」

二人が、このようにして、泥鍍金の観音様を作り、

国中の人に拝んでもらったところまでははっきりしているが、

二人のその後の生活がどんなものであったか、御上はどうだったか、

あるいは他の人夫達はどうであったかは解っていない。


  四話 
 鯛(たい)の皮を着た鮒(ふな)

 

 

 

昔、ある川に鮒が住んでいました。

「わしはこの川の大臣じゃ。わしの父親は川上の知事じゃった。

そのまた親父は川下の町長じゃった。この川の魚では鮒が一番偉いのじゃ。」

「ふ〜ん。川魚では鮒が一番偉いのか。

父上、それでは、世界中の魚では何が一番偉いのですか。」

「うん、いい質問だ。世界で一番偉い魚は鯛という魚じゃ。

じゃが、鯛になるためには、海で住まなきゃならん。

海は水がしょっぱくて、よっぽど頑張らなきゃあ生きてゆけん。

無理はせんで良い。お前は川の総理大臣になれば良い。」

鮒の子は大きくなると親の言うことも聞かず、

ひとりで海に向かって泳いでゆきました。

―――「俺は絶対に鯛になるんだ。」

長い旅の末やっと辿り着いた海へ一歩踏み入れたとたんに、

鯛の子はしょっぱい水が鰓の隙間に入って

死にそうになってしまいましたが、

このまま引返すわけにもいかないので、

海と川の境で店を出している海産物屋で鯛の皮を一枚買って、

それを着て故郷へ帰ってゆきました。

ところが、故郷へ帰ってみると親は既に亡くなっていました。

人間に釣られて食われてしまったそうです。

鯛の子は悲しみました。

「なんてことだ。

親父様も鯛になっておれば海で住むことができただろうに。

たとえ、川に住んでいたとしても、畏れ多くていくら人間でも

鯛には手出しできないであろうものを・・。」

嘆いているうちに鯛の皮を着た鮒の子は腹が減ってきました。

ふと上を見るとうまそうなミミズが泳いでいるではありませんか。

鯛の皮を着た鮒の子は思わず、ガブリとミミズの体を飲み込みました。

「イタイ、イタイ、イタイ」

ミミズの体の中には釣り針が入っていたのでした。

鮒の子は暴れましたが、息が苦しくて意識を失いました。

釣上げた漁師はびっくりしました。

「わしゃこの川で何十年も魚を釣ってきたが、

まさか鯛がおるとは思わなんだ。

こりゃあ、修行をつんだ偉い鯛にちがいない。

鯛が真水で生きてゆくなど、

とてもそんじょそこらの鯛にできることではない。」

鮒の子は生簀の中で意識を取り戻して漁師のひとり言を聞いていました。

「こないだ釣った金バッヂをつけた鮒が

わしの生涯で最も自慢できる大物だと思っておったが、

長生きはするものじゃのう。」

鮒の子は親のカタキが目の前にいるというのに、

ピチピチはねるのが精一杯でした。

「金バッヂの鮒は御代官様に献上して表彰状をいただいた。

今度は、殿様に献上して、

生きの良いうちに活造りにして食ってもらおう。」

鮒の子はイキズクリという残酷な言葉を聞いて

飛び上がらんばかりに身の不幸を嘆きました。

ところが、殿様に献上された鯛の料理を命ぜられたコックは、

びっくりしました。

なにしろ鯛の皮を剥いだら、鮒が出てきたのですから・・。

コックは、すぐにその出来事を殿様に伝えたので、

殿様は怒ってすぐに漁師を呼びつけ死刑を宣告しました。

鮒の子は期せずして親のカタキを討つことが出来たので、

その点については喜びましたが、自分の身の嘆きは消えませんでした。

それは、鮒の子をコックが猫にやってしまったからです。

けれども運の良いことには、猫は下痢をおこしていたので、

「わしゃ、ナマモノは食わん。」と言って、城のお堀に捨てたので、

鮒の子は土管を潜って故郷の清き川に戻ってゆきました。

鮒の子は、その後総理大臣になったのか

村長にもならなかったのかは解かりませんが、

川が汚くなった今でも語部として、その川に生きているそうです。

 


  
五話  猫股  前編)尻尾で書かれた手紙


拝啓 猫堀ご夫妻、お元気でしょうか。あの春、東京を去って以来、何年

経ったのでしょう。その間、残念ながら僕には東京へ行く機会は一度もあり

ませんでしたし、筆不精のためとはいえ、お手紙一つさしあげませんでし

た。ですから、僕こと亀戸天之助のことなどは、とっくにお忘れになってい

るかもしれません。しかし、僕はあれから何度か貴方がたに会っているよう

な気がしてならないのです。

 今日、突然便りをする気になったのは、「醒めている者には一つの共通の

世界があるが、眠っている人間では、各人が自分自身の《私の世界》に退い

ている」というギリシャの哲人の言葉を思い出したからです。つい先達ての

春霞の中での出来事は夢だったのでしょうか、まぎれもない事実だったので

しょうか。もし夢ではなく事実であったのならあなたがたご夫妻も僕が今か

らお話しする体験を、珍妙な事実として既に僕と同時に体験されていること

と思います。「夢は過去を再び生きることだ」と言った人もいます。もしあ

の体験が夢であったのなら僕は過去の町を独りで彷徨っていたことになるの

でしょうか。

 貴方がたの好きな猿股の話ではなくどちらかというと貴方がたご自身の股

(猫股)に近い話なので恐縮なのですが、是非お聞き下さい。

 あの日、新幹線の電車を一歩降りると懐かしの東京は限りなく拡がってい

ました。ホームには人、人、人。顔、顔、顔。それは誰でもなく、ただの人

であり、ただの顔でしかありません。脚は脚で九州産のものもなければ広島

産のものもありません。皆、東京の歩調で歩いていました。でも、長い間田

舎に籠っていた僕にとっては却ってそのことがとても嬉しいことのように思

えました。

 改札口です。僕はコートのポケットから切符を出し損ねて落としてしまい

ました。拾おうとして視線を床に落とした時―――今思い起こしてみると軽

い耳鳴りに煩わされるようになったのはこの時からのような気がするのです

が―――僕は不思議なものを見つけたのです。―――足跡。誰がこんな悪戯

をしたのだろう。まるで墨でも踏んだ足で歩き廻ったようにはっきりとした

裸足の足型が無数についているのです。でも、行き交う人々のなかには一人

としてそんなものに頓着する者はいません。俄東京人とはいえ、ともかく都

会人らしく振舞ってみようと思い、僕は既にベルが鳴っている中央線の赤電

車に飛乗ったのです。と、いきなり若い女性のミニスカートが目に飛込んで

きたのが悪かった。いや、もっと正確に言えば、そのう、・・。ともかく僕

の視線は彼女によって床に敲き落とされたのでした。そして、そこで見たの

がまたしてもあの黒い足跡だったのです。

 顔を上げれば常に刺激的な世界があり、そしてその世界にはいつも為体の

知れない何者かに脅迫されている現実がある。それが都会だ。東京だ。そう

思った僕にはとても顔を上げるほどの勇気は起きてきませんでした。仕方な

く奇怪な足跡と付き合っていると妙な事に気付きました。左の足跡にはくっ

きりした土踏まずがあるのに右のそれには、土踏まずが全くない。完全な偏

平足です。あまり大きくはないが子供のものではないようです。なんとなく

鄙猥な男の臭いが漂ってきます。

 お茶の水の駅のホームにはもはや足跡であることが判別できないほど幾重

にも黒い染みが重なり合っていました。ここで地下鉄に乗り換えです。真新

しい電車がやってきました。新車に違いありません。あの頃、ここと高田馬

場とをこの電車で何往復したのでしょうか。

今は、新しい電車の中に新しい学生がたむろしています。新しい学生などと

いう表現を使うと貴夫妻はお笑いになるかもしれませんが、僕にとって東京

は常に学生の町であり、喩え背広を着てそこに住着いていたとしても、東京

にいる自分自身は常に学生なのです。そして親友は(喩え、親友自身がそれ

を否定しようとも)常に学生時代の所産であるのです。ですから、貴夫妻も

学生時代からの僕の親友であったことに異議を挟むことは許されないので

す。

結婚式の会場は、高田馬場の駅を降りると昔アパートがあった所の反対側の

道を七、八分歩いた所にありました。

不快な足跡は、もうここには疎らにしかついていなかったのですが、式場に

着いてみると、「青江家、真部家の結婚式―――都合により中止」という札

が下がっていました。受付で理由を聞いてみると、なんでも花嫁さんが、日

本髪を結っている最中に吐気と眩暈をうったえるので、心配した花婿すなわ

ち学生時代の友人青江広雄がすぐさま病院へ連れていったということでし

た。どこの病院かと聞いても解からない。これでは、全く何のためにはるば

る東京へやってきたのか。けれどもしかたがないので、すごすごと引き返す

と、またあの忌まわしい足跡に出会いました。何故、こうもこの足跡を不快

に感じるのかと思ってみても解かりません。

足跡は、駅を越して元のアパートの方向へ夥しく続いています。これだけの

通行人がいて、ここでも誰一人として足跡に注意を払う者がいないとは。東

京とは本当に不思議な所です。

腹がへってきました。見渡すと“ミケド”という看板が目に入ってきまし

た。いやにけばけばしいネオンがついているとは思ったのですが、入ってみ

て驚きました。昔はここでよくアジの干物のおかずがついたネコマンマ定食

を食べたものですが、今ではゲームセンターに様変わりしていたのです。

しかたなく空いている席の椅子に腰掛けて百円玉を入れてみました。する

と、黒猫のタンゴの曲が流れ画面いっぱいに黒猫が現れました。どういうわ

けか、真中の奴だけは、ピンクの猫です。どうやらこいつを落としたら点数

が高いらしい。左下のつまみを操作しながら狙いをつけて右手で玉の出るボ

タンを押すのですが、なかなか当たりません。やっと当たったと思ったら黒

猫の場合とは違って、ピンクの猫は消滅しないで「イヤン」とか「エッチ」

とか「バカン」とか「イヤ」「ダメヨ」など妙に色っぽい声を出すだけなの

です。たまたま尻尾に当たったら、その尻尾がとれてピンクの猫の襟巻きに

なりました。ピンク猫はマリリン=モンローのような格好をして踊りはじめ

ました。すると、“かえらざる河”のテーマ音楽が流れて一万点アップされ

ました。しばし夢中でゲーム機をいじっていたのですが、見渡せば小、中学

生とアホ面の大学生ばかり。アホくさくなって店を出るとすっかり暮れてい

ました。

おかげで、黒い人の足跡はよっぽど眼を凝らさなければ見えないくらいに

なっていました。が、今度は白い粉を踏んだような猫の足跡を一筋見つけま

した。そいつは道路を横切って“白薔薇”という純喫茶に入っているようで

す。この喫茶も学生時代はよく入ったものです。健在とは本当に嬉しい限り

です。中は以前と同じように薄暗いままですが、壁も天井も鏡張りに変わっ

ていました。そのせいか奥行きがとても広く感じられます。アメリカンを注

文してトイレに入るとその中まで鏡張りでした。そのうえ、便器の向う側の

壁もやはり鏡で出来ていて、それはどうやら開き戸になっているらしく、ノ

ブがついているのでした。なんだか気味が悪くなって出かかっていたものも

引っ込んでしまいました。

 引き返してテーブルに着くとウエイトレスがコーヒーを運んできました。

なるほど、床が鏡張りであることの意味がよく解かりました。

 女は隣にかけて僕の方を向くなり「お久しぶりねえ、お元気」と微笑んで

きました。全く見覚えの無い顔でした。女は僕の左手をとって自分の胸に忍

び込ませてきます。「私、今も高円寺に住んでいるの。」まるで思い出して

くれ、と言わんばかりです。よしてくれ俺には全く身に覚えのないことだ。

こんどは右手をとって太腿に押しつけてくる。ひょっとすると・・。悪い記

憶が蘇ってきました。―――許してくれ。若気の至りだ。子供が新しく買っ

てもらった玩具を壊してみたくてしかたない衝動に駈られるのと同じこと

だったんだ。軽い気持ちでちょっと分解してみただけなんだから。

「トイレ、トイレに行って来る。」僕は彼女の手を払いのけて立ち上がりト

イレへ駆け込むと、先程ここへ入った時に見た便器の向う側のノブを思いっ

きり引きました。長い鏡の廊下が続いています。

 恐る恐る歩いてゆくと、ゴーっという猛烈な音がして銀色の電車が入って

きました。鏡の廊下はいつの間にか、地下鉄のホームに変わっていたのでし

た。ドアが開くと僕はほぼ発作的に電車に足を踏み入れていました。何故か

僕にはこの電車が三鷹行きであることが解かっていました。行くあてはない

が、ともかく終点まで行こうと思いました。でなければ、とても動転した気

持ちが元に戻らないと思ったからです。落ち着きを取戻すだけの時間が欲し

かったのです。それなのに、死んでもいやだと思った高円寺で降りるはめに

なったとは・・。

 高円寺の駅に着いた時、窓を突き破って女の悲鳴が僕の耳を射抜きまし

た。僕は驚いてホームへ飛び降りたのですが、僕をホームに残したまま、電

車は何事もなかったように発射してしまったのです。見渡すとホームは血の

海でした。それにも拘わらず、ホームを歩く人々はそんなことはなんでもな

いと言ったふうに歩いて行きます。ある男女は腕を組みながら、ある老人は

新聞を読みながら・・。よく見ればそれは血ではなかった。またしても、足

跡だ。こんどは赤い足跡だったのです。でも今度は例の片足偏平の足跡では

ない。ちゃんとした土踏まずがくっきりとついています。なんとなくあの女

のもののように思えて不愉快でした。

 改札口を出ると赤い足跡は南口を這って右の道路に伸びていました。僕は

敢えて北口へ向いました。通りを歩いていると、道路の片隅にところどころ

雪が残っているのが目に入りました。と、ふと気付きました。雪の上には必

ず猫の足跡がついているのです。なんとなく疲れを感じ始めていた僕には、

それがもし神のものでないにしても僕が従うことを宿命づけられた悪魔かな

にかの啓示のように思えました。僕はその足跡の一つ一つを踏みつけて自分

の靴の跡に変えて歩き続けました。雪の足跡は一つのマンションの前で、滴

る水の足跡に変わって階段を上ってゆきます。それは、九階の「猫堀忠助・

ミー」と書いた表札のある扉の前で消えていました。

「猫堀忠助 ミー」―――それは確かに懐かしい名前でした。親友の名前で

す。でも、あの仲の悪かった二人が結婚していたなどとは思いもよらないこ

とでした。こんなふうに貴夫妻のことを言うとお叱りを受けるかもしれませ

んが、それが正直な気持ちだったのです。

 チャイムはトムとジェリーのテーマソングになっていました。ドアの内側

からミャ〜オというような声が聞こえてきて、しばらくしてドアが開きまし

た。

「本当にお久しぶりね、亀戸さん、その後お元気でしたか」

ミー君は昔と少しも変わっていませんでした。

「さあ、お待ちしていたのよ。チューちゃんも腕によりをかけてネコラーメ

ンを作って待っていたのよ」

 何故、あの時貴夫妻は僕が来ることを知っていたのか不思議な話です。で

も、何故だったのか、僕はあの時、その事を少しも不思議な事とは思わず、

寧ろ当然のことのように思って、ご馳走を戴きました。

 チュー君はしばらくみないうちにめっきり白髪が増えて、雪のような頭に

なっていましたね。いや、そういう表情はまずい。雪は雪でも道路の隅に

残って半分泥をかぶった東京の雪の意味なんだから。

「東京で、美人の嫁さんを貰うと、男はみんな、こんな頭になるんだよ。」

 チューくん、君は九階の窓から、夜の高円寺を見ながら話してくれました

ね。僕はその時、君と一緒に窓から外を見ていました。そして、ある一つの

発見が僕に身震いを起させたのです。

 東京特有のほの白い夜の灯りが醸しだす高円寺の街は、あれほど複雑に入

組んでいるにも拘わらず、九階から見ると、なんと単純にも一つの巨大な猫

の足跡でしかなかったのです。

「亀戸さん、粗茶をいっぷくどうぞ。」

 僕はミー君が入れてくれた抹茶をおいしく戴きました。そして、三度回し

て茶碗を返しました。

「亀戸さん、あなたは、私が愛知裏千家ミー流の家元であることは知ってい

るでしょう。では、礼を尽くして下さい。」

 僕は申しわけないことをしたと思って、正座をしてやり直しました。

「いち、に、さんど回してニャンコの目、クル、クル、クルのニャンコの

目、あなたも私もニャンコの目、ケッコーけだらけニャンコの目、桜島はハ

イだらけ、ハイだらけの柿右衛門、ネコをかぶってニャンコの目、クルクル

クルッのニャンコの目」そして、四つんばいになり、お尻をつきだして茶碗

に顔を近づけてその模様を拝見しました。本当に素晴らしいベッコウ猫の絵

が描いてありました。

「お返しに僕にもいっぷくたてさせて下さい。」

「亀戸さん、では、この茶筅で僕にたてて下さい。」

チュー君が、僕に手渡してくれた茶筅は本当に珍しいものでした。普通茶筅

は竹で出来ているはずですが、そうではないのです。白い色でなんだかとて

も艶かしく感じるのです。お茶をたててみて、我ながら感心しました。柿右

衛門の朱の上に、渋緑のミルキーな小さな泡がびっしりと水草を敷きつめた

ように浮いているのです。

「これはすばらしい。亀戸さんがこれほどの腕前とは知らなかった」

チュー君は喜んで飲んでくれましたね。本当に有難う。あんな素晴らしいお

茶をたてることができたのは、本当にあの茶筅のおかげです。僕は君が昔、

鬚を伸ばしていたことは知っていたが、まさかあれが・・。

チュー君はいつの間にか寝てしまったので僕はミー君と二人で遅くまで話し

ていました。ミー君が僕に風呂をすすめるので入ることにしました。湯船に

つかっていると、戸の向側からミャ〜オと聞こえてきました。声はすれども

姿は見えぬ。僕は猫の姿をまだ見ていないことに気付きました。

 風呂から上がって廊下の上を素足で歩くと、足跡がペタリ、ペタリ。なん

とその足跡は、片足偏平足―――馬鹿馬鹿しい話ですが、それは、自分の足

跡だったのです。

 ミー君が今度は風呂に入ったので、僕は、残っていたネコラーメンのスー

プを飲みながら鮨を食べていました。すると、部屋に可愛いピンクの猫が

入ってきて、僕の顔を見て、ニコッといかにも照れくさそうに笑い、トコト

コトコッと洋服箪笥の引出しをあけて、一枚のパンティーを取出して、ま

た、トコトコトコッと部屋を出てゆきました。流石、よく教育された猫だ。

僕はてっきり貴夫妻がメイドの代わりに飼っている猫だとばかり思っていま

した。

 ここまでお話すれば、後は、貴夫妻が・・あなた方のほうが・・ああ・・

あああ・・僕の尻尾が・・ああ・・あああああ



(後編)尻尾で書 かれた話


君はお母さんのオッパイの味を憶えているだろうか。憶えていない。とする

と、隣家のお姉ちゃんのオッパイをおねだりして折角吸わせて貰ったのに、

出ないと言って癇癪を起こして、挙句の果てに生えたばかりの歯で非人道的

な試噛(ためしがみ)なる行為をしたことも、そしてそれが原因でお姉ちゃ

んの将来が歪んだものになってしまったことも君は知らないと言うかもしれ

ない。

 なるほど忘れるということは、人間が持っている優れた能力の一つだろ

う。だが、このような君が忘れてしまった出来事をさえ憶えていてくれるの

が歴史であったとしたら、それは嬉しいことではなかろうか。

 これから歴史が話してくれる事実は、君にきっと、オッパイの味とそれを

しゃぶりながら見たあの日の光景を在り在りと思い起させてくれるに違いな

い。

 1972年初夏、帝国都警は東京、特に高田馬場付近で猛威を揮っている

雌猫ミーをドン(首領)とする野良猫軍団を捕らえるために東京中のマン

ホールの蓋をはぐり、その上に木天蓼(またたび)のエキスを擂りこんだ薄

い発泡スチロールの板をかぶせて落とし穴を作って張込んでいた。

 ところが肝腎な猫は一匹も掛からず、いつも落し穴の底で猫いらずの入っ

た餃子を食って悶えているのはピンクの水玉模様のヘルメットを被ったカゲ

リ派(翳り派)と呼ばれている学生ばかりだった。

 そこで警視庁から依頼を受けた平和(ピンフ)警備有限会社は、FBI及

びKGBに協力を要請するとともに秘蔵のタイムマシンにより、1993年

の資本主義社会から最新鋭のコンピューター機種である伊立(イタチ)

NFJT(ネコフンジャッタの略称―――通称ネコフン)を購入してドン・

ミーの弱点を徹底的に究明することにした。

 コンピューターを購入するための資金の調達はタイムマシンさえあれば簡

単である。それは、1984年に隆盛を窮めているサラ金会社ネコムから借

入すればよいのだから。利息は高ければ高いほどよい。何故か?―――計算

してみれば一目瞭然。1972年に借りて1984年に返済するのであれば

借りた金額の倍以上を返さなければいけないだろうが、逆なのである。

1984年に借りた金を1972年に返すのである。これだけヒントを与え

ればいかに数字に弱い読者諸君でもお解かりだろう。時は、今とは大違いイ

ンフレの絶頂期なのである。

 一方、次々と仲間を失ってゆくカゲリ派ピン玉戦士会会長猫堀忠助は、こ

のままではすまされないと思い、思案を重ねたが名案は浮かばなかった。そ

うしている間にも、一人また一人とピン玉戦士は穴へ落ちて行く。落ちるこ

とはすなわち堕ちることである。猫いらず入りの餃子を一度食した戦士達は

その味が忘れられず、彼らはついに中毒にかかってしまったのだった。

 そんな訳で、彼らは木天蓼(またたび)の匂いを嗅ぎ付けては発泡スチ

ロールの板を破ってその中の餃子、猫いらずの入った美味しい餃子を貪り歩

くようになったのだ。斯くしてピン玉戦士は、堕ちることの意味も推考する

こともなく自らの神、ケール=クスクスを蔑ろにし、猫いらず入り餃子の前

に跪いたのであった。

 哀れな会長猫堀忠助は、自分達の真の敵は国家権力などではなく、ひょっ

とすると猫ではなかったのか、などとちょっぴり反省していたせいか、ふ

と、「猫は世につれ世は猫につれ」という言葉が鼻歌交じりに飛び出した。

猫堀忠助会長は、そうだと思った。ラーメンの屋台をはじめることを思いつ

いたのだった。

 彼がはじめた猫いらず入りラーメン、略してネコイランメンは開店の日よ

り爆発的人気を博した。欲求不満の状態にあるヒトの内臓はマゾヒスティッ

クに出来ている。そのことを踏まえて味付けされた彼のラーメンは天下一品

であったのだ。ちょっぴり辛い舌触りは、甘くドロリと喉を伝わり、脈を

うって胃を流れ、腸の内部で爆竹を鳴らしているような感触がなんともいえ

ない。もはや餃子などはメではない。

 斯くして全てのピン玉戦士は一糸乱れることなく屋台の前に整列して、頭

からヘルメットをはずし忠助会長に一礼した。いまやヘルメットを頭にかぶ

るのはナウ(現代的)くはないのだ。食器にして使うのが最もナウい方法と

なったのだ。ここでは下部構造が上部構造を規定するかどうかは多分問題に

はならないと思うが・・。ともかく彼らはもはや翳り派ではなく過下痢派と

なったのだった。

 さて、最新鋭のコンピューター=ネコフンを導入した甲斐があってか平和

(ピンフ)警備有限会社は、ついに首領(ドン)ミーの弱点を探りあてるこ

とに成功した。ミーは色男に弱いことが暴露されたのだ。1980年代のものな

らばここまでがコンピューターの仕事である。多少性能のよい機会でもせい

ぜいパターン認識によりアランドロンが好みかエルヴィスプレスリーがよい

かそれとも反町隆史が相応しいかを判断する程度である。ところがネコフン

ともなればそんな怠惰な仕事をすることはプライドが許さない。なにしろ人

間の人間たる所以、すなわち人間性なるものがどんどん退化し且つ退化し続

けている1990年代を尻目に一人進化を続けている機械の意気込みはそんな生

易しいものではない。彼は虎視眈々とポスト人間を窺っているのだ。そし

て、人間が人間性なるものをデオキシリボ核酸の上に見出そうとしている限

りその日も真近かであると彼は確信しているのだ。

 ひょっとしてネコフンのやつ哲学をするのでは?―――などと思う読者が

いたら、それは彼に対する最大の侮辱である。機械は禁断の木の実を食うほ

どいやしくはないのである。彼はFBI、KGB及びゲシュタポの生残りが

収集した全世界の色男に関する資料を分析し、首領ミーの定義する色男に最

も近い実在をキャッチしたのである。なんとその男の名が猫堀忠助であると

したら、世界はあまりにも狭すぎるのではないかと思われるかもしれない。

しかし、それは事実である。当時、世界の全ての国、全ての都市、全ての町

村は皆、高田馬場に隣接していたのだ。

 議論沸騰の末、帝国都警は、今では足を洗ってラーメンのチェーン店を経

営することに熱意を燃やしている猫堀忠助氏に“囮(おとり)作戦”の協力

を求めてきたのである。つまり忠助氏に囮になってくれないだろうかと。猫

堀氏は生来他人に頼み事をされると断れない性格であったので二つ返事で引

き受けたが、すかさず条件を出してくるところなどは憎い。すなわち、今後

5年間警察官の昼食メニューはネコイランメンに限らせたのであった。

 商売繁盛は約束されたものの「ヒトはラーメンのみにて生きるにはあら

ず」という言葉が寝不足の頭の中で雲のようにフワフワしているのを感じて

いるせいか、あるいは猫とは言え自分に好意をもってくれている異性を裏切

るという罪悪感に耐えかねてか、猫堀忠助はなんとなく落着かない様子だっ

た。

 帝国都警は“囮作戦”を実行する前にマスコミの機嫌を取ることを忘れな

かった。ヘタをするとミイラとりがミイラとなりかねないご時世だ。そこで

事前に猫を処罰するための大義名分を吹聴する必要があったのだ。先人が

言ったようにいつの世でも一般大衆が知りたがっていることは“キリストが

何を言ったか”ではなく“キリストが処女の胎内から産まれ出たかどうか”

ということである。世間に野良猫どもの悪行を訴えるための最も効果的な方

法は、彼等が行った悪事を逐一報告するのではなく、彼等の首領であるミー

個人のスキャンダルを流布することである。それならばテレビや週刊誌が最

も得意とするところであるので、帝国都警としては特に積極的に行動するこ

ともないのである。ただ一度だけ記者会見により、首領ミー一派が昨夜高田

馬場のスナック“ドビン”で右竹氏を嚇してスルメ三枚を盗み、西早稲田の

矢吹邸を襲って食いかけの鯵の干物を一枚無理やり住民(まがりにん)の西

山氏より強奪したといった内容の事実を発表すれば、そのあとは自動的に首

領ミーの出生の秘密から今日に至るまでの極悪非道な実態が明らかにされる

ことは間違いないのである。なにしろ、お尋ね者の猫騒動というのは我が皇

国では未だ嘗て一度もないのであるから。勿論、多少の尾鰭はつくかもしれ

ないが、ミーの場合、尾は既についているものだから大目に見ようではない

か。

 どうやら記者会見が始まったようだ。読者諸君、さっそくテレビのス

ウィッチを入れて見ようではないか。

・・・ガ〜ッガガ〜〜ガガァガ〜ッガガ〜〜ガガァガ〜ッガガ〜〜ガガァガ

〜ッガガ〜〜

どうしたんだ??ガァガ〜ッガガ〜〜ガガァガ〜ッガガ〜〜ガガァガ〜ッガ

ガ〜〜#$!


(あとがき股はあとあがき)取敢えず蒼鬼に注意


 諸君、人生股は猫生なんてものは須らく今は昔、股は昔は今なのである。

生きすぎた猫の尾は双股に別れ、各々ペンを掌り言葉を伝って巧みにヒトの

体内に侵入し心の壁に、鬼の落書きをすると言われていることは、詩人なら

誰でも知っていることだ。

二匹の鬼。一匹は“嫉妬”であり、それは他者に対し無意味な攻撃を有形無

形のうちに行う。嫉妬は燃盛る赤鬼である。もう一匹は“自己嫌悪”であ

る。こいつは何もかもを無気力にしてしまう。人の心から血の気を抜き取っ

てしまうのである。それは貧血の友、蒼鬼である。彼等に捕まる時はいつも

決まっている。それは自己の自己たる所以、他者の他者たる所以を見失った

時である。私はもっと私自身でなければならないのだ。(了)


  六話 小夜 (1)小夜

 

 

香世が小夜を産んで以来

あれほどいた妊婦の姿が この街から消えてしまった

男の子の名前しか考えていなかったが

少しもがっかりしなかったのは何故だ

即座に 小夜という名をつけてしまっていた

それしか浮かばなかったのだ

香世は 自分の名と響きが似ていることに気を良くしている

あの小夜が 今はどうしているのか 私は全く知らない

今思えば はしかのような恋だった 

だが その恋こそ 私にとっては唯一の敵だった

克己とは恋を克服することにほかならなかった

ひとたび小夜のことを考えると もう 勉強どころではない

小夜に会わないこと 小夜のことを思い浮かべないこと

それが私の信条だった 

だが 何故 私はあんなことを言ってしまったのだろう

"君のために勉強する 君を幸せにするために必ずT大に入る"

私は落ちた

その恥ずかしさに 小夜の顔も見ないまま 上京して私大に入学した 

私が小夜について知っているのは 地元の国立大学に入学したところまでだ

遠い昔の思い出話だ

おや

おい 香世 ちょっと来てみな 小夜の手首が変なんだ

変って?? 左手首? 

ほら 少し赤いだろう 腕時計をすれば隠れる場所だけどな

あなたったら・・ どうかしてるわ 何ともないわよ
子煩悩もほどほどにしてよね
昨日も寝言 言ってたわよ 小夜 小夜・・って

痣は大きくはならないが だんだんはっきりしてきて
毎日 少しづづ 膨らんでくるのが解る

それでも 香世は 相変わらず 私を馬鹿にするだけだ

香世に内緒で医者に見せると

なるほど そういえば 鋭い刃物で切った痕が・・あっはは 気のせい 気のせい
生まれて半年のこの子に 10年も前についた古傷があるわけはない

そんな馬鹿な 痣も膨らみも医者にさえ見えないなんて

なんということだ

家に帰って小夜の手首を見ると

そこには 小さいながらもはっきりとした形

まぎれもない 高校生の小夜の顔だ

哀しそうな顔から 涙が一滴

それを拭おうとして 思わず唇を近づける



か細い声 "幸せにしてね 幸せになってね"

ぱんっと弾けて 黄色い膿が エプロンに飛散った

あなた 蜜柑なんて この子にはまだ早いのよ 
はい これ 郵便受けに入ってたわよ 

開封すると同窓会名簿 

錯乱した文字が 私の胸に突き刺さった 

桜木小夜 死亡

 

六話 小夜 (2) 思春期の小夜

 

 

香世に向かって 手当たり次第 物を投げつけ

手足をひきつらせて 私を 涙の横目で睨む

あのおとなしい小夜が 豹変したのは あの日

香世と私の結婚15周年記念を迎えた日

小夜を寝かしつけて (いや 眠っていると思っていたのだ)

二人で食事に出かけた あの祝いの夜が最初だった

香世が 諌めれば 諌めるほど

小夜の顔は蒼ざめ 四肢を枯木のようにひきつらせる

思わず私は 弓なりになった小夜の体を抱きしめ

優しく手足をさすってやる

そして あの左手

痣も無く 膨らみもない 

抜けるように白い 手首に 口づけする



小夜は 嘘のように 安らいだ顔になり

そのまま 眠りこけてしまう

あどけない寝顔に 私は 自らの罪悪を見せつけられないではいられない

凍結していた私の潜在意識が 解け崩れ 血液となって

自らの意識の体内を 撹乱しつつあることの罪をだ

小夜を抱擁したときに感じる 胸のふくらみ

あの弾力は もはや 愛娘のものではない

遠い昔の けれども 現実味あふれる 

懐かしい 青春の感触だ 

香世の視線に私の全身がわななく

すると 小夜の左の乳房が ぴくりと動いて

私にだけ聞こえる声で 叫んだ

""お願い 私を一人にしないで そのまま じっと抱いてて!!""

 

六話 小夜 (3)  小夜と七夕

 

 

天の川に流されて

梅雨空から落ちてきた

ベガとアルタイルのように

私達はどしゃ降りの雨の下

ただ やみくもに 抱合い愛撫した

雷鳴がやんだ後に 残ったものは

ずぶ濡れの体と 何も見えない未来だけだった

七夕の日のあの場所 それが この境内だった

そして 今 ここに居るのは あの小夜ではなく

私の愛娘の小夜だ

実の娘でありながら 同じ名前

(私がつけたのだ 後悔しても始まらないのは承知だ)

しかも 娘小夜は いつの間にか

あの小夜と 瓜二つに 成長している

私は DNAなど 信じない 

いやでも 生まれ変わりを 信じさせられてしまう

娘小夜が 桜木小夜の生まれかわりだとしたら

小夜は 前世のことを憶えているのだろうか

土曜夜市の帰りに この境内に誘ったのは

私ではなく 娘の方だ

偶然か 前世の潜在意識がそうさせたのか

それとも 何もかも知っているのか

憶えていて 私をここに誘ったのか

私は そ知らぬふりをして 賽銭箱に小銭を投げ 柏手をうつ

"お父さん 何をお祈りしたの"

"小夜ちゃんが、好きな人のところにお嫁に行けるようにさ"

"おとうさんったら 私 お嫁になんか行かないわ"

星が流れて 一瞬 小夜の瞳を輝かせた

 

六話 小夜 (4) 花火の影 小夜

 

 

"この人 誰?"

実家の縁側で見る 昔のアルバム

"小夜ちゃん びっくりしたんだろう そっくりだものな"

"誰と?? お母さん この人 誰と似てるのかしら"

"綺麗な子ね  お父さん 昔はもてたんだものね"

"ふ〜〜ん でも 誰に似てるのかしら ねえ 誰? 誰よ??"

"誰って 小夜ちゃんに決まってるじゃないか"

"小夜ねえ ほほほ 小夜ちゃんって こんなに美人かしらね"

"まあ 失礼 全然似てないけど 美人っていう意味じゃあ同じってわけか 私と"

何度 目を凝らして見ても あの小夜と ここにいる小夜とは瓜二つだ

何故 香世も小夜も似てないって言うのだ? ほんとに似てないのか

ほんとは似ていないのだろうか??

美しく 儚く 謎めいた 花火が

小夜と 香世と 私の大空に

絶間なく 打上げられていく

もしかしたら

小夜は 私だけの暗い海に落ちてゆく

花火の影なのかも知れない

無秩序に並んだ 無数の波の鏡に乱射した

音を失った花火の 影なのかもしれない

無意識に 私は影を拾い集め

その影を 香世にひき摺らせ

香世がひき摺った影に 小夜を産ませた

過去 現在 未来 現在 未来 過去 未来 過去 現在

影 香世 小夜 香世 小夜 影 小夜 影 香世

花火を映す ランダムな海の輝きは

誰も見ない 私だけの揺れる鏡は

ただ 哀しく

海の 暗さと 冷たさだけを 唄っている

 

六話 小夜 (5) 小夜とヤマンバ

 

 

シルバーシートに陣取った

天真爛漫な ミニスカヤマンバが二匹

ペースメーカーを胸に抱えた老人を前に立たせて

携帯電話に夢中になっている

彼女達の姿を見ていると

なんだか 小夜だけでなく香世の鬱屈した精神に

憐憫の情と限りない愛おしさを感じてやまない

ヒステリー症

四肢を硬直させて狂乱する吾が娘の病名を知ったとき

その響きのおどろおどろしさに狼狽していた香世

その香世が 最近ではよく体の不調を訴える

香世は 私が小夜に対し 単に娘としてではなく

何か 女性としての異質の感情をもっていることに 気付き始めたようだ

香世の症状も 本質的には小夜のそれと同じだ

だが 香世は断じてそれを認めるわけにはいかない

四肢は絶対に硬直させたりはしない

それが 母親の本能とでもいうものらしい

香世はよく 私の前では

声が出ないという 腰が痛くて立てないという

だが 電話が鳴れば普通に話せるし

雨が降れば 干していた布団を 慌てて家に取入れることができる

どこの病院に行っても 異常なしと言われる

だが 精神科だけには絶対に行かない

先日は 頑強な骨格を医者に誉められて帰ってきた

しかし 香世はその度に 医者を藪医者あつかいして

自分で 色んなこじつけをしてみせる

普通の人より喉の粘膜が弱いのだとか

学生時代に無理な運動をしすぎたせいだとか

そして病名も色々つけてみせるが 決して ヒステリー症ではない

よくストレスのせいにしていたが

最近では 少し早いと思うのだが 更年期障害だと言っている

自分がコントロールできる意識の世界から 逸脱した原因によるものなのだから

病名など 医者にでも任せておけばよいものだと思うのだが そうはいかないらしい

それは ちょうど 理由も無く無闇に 自分でも判然としない衝動に駆りたてられて

ただ何かを書いている もの書きが

その作品を "落書き"とだけは言われたくない心境に似ている

詩とは呼んでもらえなくとも せめて ショートショートだとか コラムだとか・・

それこそ 暇な学者に任せておけばよいことなのに

絶対に "落書き""ヒステリー症"などと呼ばれたくないのは人情なのだ

ヒステリー症患者も もの書きも

ヤマンバよりは 遥かに 広く

けれども 規範の網の目が張り巡らされた

秩序を求める世界に 住んでいるのだ

決して希望を見捨てる世界には住んでいない

だから 葛藤があるのだ

小夜と香世に 憐憫の情と限りない愛おしさを感じてやまない

まして 全て 私のせいなのだから

 


 



底ネット:
小笹二十志詩集「糞ころがしの 唄」
   2002(平成14)年12月26日HP開始

http://ww5.enjoy.ne.jp/~mus-ako/index0.html
   
入力:岡田澄人
校正:岡田澄人
ファイル作成:岡田澄人
2002年2月20日公開

 


TOP